芸術に求めること

今日入った喫茶店森山大道の写真集をぱらぱら見ていたところからこの話は始まる。
まあ皆さんご存知だと思うが森山氏の写真集というのはこれが相当負のオーラを漂わせた写真と作品のオンパレードで、
例えば「ハーレーダビットソン」というウォーホルのシルクスクリーン調そのまんまの作品なんかが掲載されていたが、
これが全然ポップじゃなくむしろ禍々しい雰囲気になっている。
一緒に見ていた嫁はちょっと気分が悪くなっていたようだった。
で、帰り際に嫁と表題のような話になって。まあ例えば私は小島信夫が好きなのだが、
彼には『うるわしき日々』のような老夫婦のかたっぽがぼけちゃうという身もふたもない要約で語られる作品があり、
嫁はやっぱり「読んでられない」ということになって、ここにお互いの芸術に求めていることのスタンスの違いが出てきたなあと感じた。
嫁は楽しいもの、美しいものを知覚することが芸術の作用のなかで力点を置くことという。
私は「経験し得ない感覚を得るために好きこのんで深淵を覗く」ことと思う。
どちらも芸術の作用であることに間違いはなかろう。
ただ好きこのんで深淵を覗くとはどういうことなのだろう。
その感覚は今やっている職業にあるものとも近い。
人の不幸を見たい、とかそういうことではない。知りたがりであることは間違いがない。
一年近くほっぽいた結果のブログ更新がこれかよ、とも思うが他に書くところもないので。