芸術に求めること

今日入った喫茶店森山大道の写真集をぱらぱら見ていたところからこの話は始まる。
まあ皆さんご存知だと思うが森山氏の写真集というのはこれが相当負のオーラを漂わせた写真と作品のオンパレードで、
例えば「ハーレーダビットソン」というウォーホルのシルクスクリーン調そのまんまの作品なんかが掲載されていたが、
これが全然ポップじゃなくむしろ禍々しい雰囲気になっている。
一緒に見ていた嫁はちょっと気分が悪くなっていたようだった。
で、帰り際に嫁と表題のような話になって。まあ例えば私は小島信夫が好きなのだが、
彼には『うるわしき日々』のような老夫婦のかたっぽがぼけちゃうという身もふたもない要約で語られる作品があり、
嫁はやっぱり「読んでられない」ということになって、ここにお互いの芸術に求めていることのスタンスの違いが出てきたなあと感じた。
嫁は楽しいもの、美しいものを知覚することが芸術の作用のなかで力点を置くことという。
私は「経験し得ない感覚を得るために好きこのんで深淵を覗く」ことと思う。
どちらも芸術の作用であることに間違いはなかろう。
ただ好きこのんで深淵を覗くとはどういうことなのだろう。
その感覚は今やっている職業にあるものとも近い。
人の不幸を見たい、とかそういうことではない。知りたがりであることは間違いがない。
一年近くほっぽいた結果のブログ更新がこれかよ、とも思うが他に書くところもないので。

はてダを始めて4年が経過していた。

この4年で何が変わったというのか。
東浩紀が小説を書くようになったくらいじゃないのか。

まあそれはさておき。
休暇を取って温泉に行ってきたんです。
もうすごい。
ケータイの電波がない。
最寄りのコンビニまで6kmくらいある。車じゃなく電車で行ったからもちろん行けるわけがない。
窓を開けると酪農の匂いがする。
温泉は油臭い。*1
物価が高い。
隔絶とはこのことを言うのだろう。
しかし。テレビは比較的きれいに映った。それだけが残念だった。
もしこれでテレビが映らなければこれはもう陸の孤島
望ましい姿だったろう。

そこに一冊だけ本を持って行った。
兵士に聞け (小学館文庫 (す7-1))だ。杉山隆男を知ったのは
メディアの興亡 上 (文春文庫)であり、その着眼点に魅かれた。
兵士シリーズは、最近杉山が
「兵士」になれなかった三島由紀夫という本を出しており、多分その関連で改めて文庫化されたものであろうと推測される。

800ページもある大著だからこそ、隔絶された土地でこそやっと読めるものだと思って持って行ったのだった。
思った通りだった。
そして私は、なぜみんなこの本を読まないのか。
と大声で、電波がなく酪農の匂いがする油臭い温泉近くのウイークリーマンション型の宿の一部屋で叫びたくなった。
自衛隊は根本的なことがなお何一つ解決されないまま、現在に至っている。
それが率直な感想だった。

「医療支援チーム」を率いるにあたって、前田一尉らは、上官の許しを得て、兵士たちと同じく
64式自動小銃を持たせてもらうことにした。チームが出動するとき、それは十中八九、
戦闘に巻き込まれることを意味していた。
(中略)
しかし、自分自身のことを守らなければならないのは何も敵と撃ち合っている時だけとは限らない。
成り行きしだいでは、前田一尉らは日本に帰国したあとでたったひとり法律を向こうに回して戦う羽目に陥るかもしれなかった。
(中略)
「医療支援チーム」はPKO法を犯してしまう可能性をもっとも多くはらんでいた。
PKO法を字句通り解釈すれば自衛隊員はたとえ民間人を助ける目的であっても発砲してはならないことになっている。
しかし、「医療支援チーム」の任務は、なにより敵の攻撃を受けて立ち往生した
「情報収集班」の退院や投票所のボランティアを「救い出す」ことにあったのだ。
それだけに前田一尉らは、自分たちが罪に問われて、たったひとりで法廷に引きずり出されるときのことを覚悟しておかなければならなかった。
 そのことを真剣に案じるより、かえって冗談で紛らわしてしまった方が本人たちの
心の負担が軽くなると思ってか、大隊本部の隊員の中には、前田一尉らのチームを別名をつけて、
「おまえら。……チームだから大変だよな」と茶化す者がいた。
(中略)
その別名とは、医療支援ならぬ、「法廷闘争チーム」である。
『兵士に聞け』(2007)P650-651

これを読んで反射的に
佐藤正久は議員辞職せよ: 平成暗黒日記を思い出してしまった。
ヒゲの隊長こと佐藤正久議員の発言には、『兵士に聞け』時代には厳然とあった自衛隊の「日陰者」的感覚は微塵も感じられないが、
これを問題視する以前に、「法廷闘争チーム」の設置を強要するような欺瞞が依然として存在していることを指摘すべきだろう。
一度、内閣法制局自衛隊イラク派兵部隊のメンバーを取り替えてみたらどうかとすら思う。

杉山は陸•海•空の自衛隊員へのインタビューを繰り返していくうちに、生の自衛隊をあぶり出して行く。
結局それは国民も政治家も自衛隊のことなど真剣に考えていないという驚くべき現状だ。
予算優先で新型艦艇をどんどん導入するが、現場では隊員不足が慢性化し練度が低下している姿。
「法廷闘争チーム」。
奥尻島島民の隊員家族への抜きがたいよそ者意識。
結局我々は「自衛隊」という概念について議論しながらも、眼前に存在する自衛隊から目を背け続けてきたのではないか。

ルポとは、元々フランス語で現地報告という意味だという。
自衛隊あるところすなわち現地であるとすれば、なぜ我々には自衛隊のルポが書けないんだろう。

*1:実際に油分が地底からしみ出して温泉と混ざっているとのことであった

マイケル•ムーアの「SiCKO」を観た。ややネタばれ注意

SiCKO

国民皆保険のないアメリカでは民間保険会社が跋扈するが、
当然営利企業である以上利益のために保険の適用否認がインセンティブとしてビルトインされ、
その結果充分な医療を受けられないで死亡する人が年間18000人も出てくるというアメリカの現状のお話。
ロビイストの鼻薬をかがされた議員どもは、皆保険制度を社会主義医療と煽り認めさせない。
かつて皆保険制度導入をぶち上げていたヒラリー•クリントンも映画作成時点には「転んで」いたようだ。(今どうなっているかは知らない)
まあここまではいつものムーア節なのだが、
こっからの展開がすばらしく、見終わった時にはなんとなく今までのムーア映画になかったすっきり感がある。
そのすっきり感は「友愛」によるものだろうと思われる。
ネタばれは控えるが、終盤我々はアメリカ撮影ではお目にかかれなかった「友愛」をアメリカ以外の国で見ることになる。
ムーアが示唆するのは、アメリカ政治における「友愛」の不在だ。
序盤、医療費が払えず家を追われた老夫婦が子供を頼ってくる。まだ二十代の子供はいい顔をしない。ここからすでにアメリカを覆う「友愛」の不在が顔を出している。
政治学的には初期のロールズが著した正義の概念は、アメリカ的思想の産物とみなされている。
「自由」と「機会の平等」こそが「正義」であり、家族や共同体が提供する「ケア」「友愛」の論理は弱められている。
フランス革命にあった「自由」「平等」「友愛」の理念のうち、競争原理による経済成長を志向したアメリカでは「友愛」が徐々に失われて行った。
ムーアはそれを問題にする。9.11で表明された人々の残り少ない「友愛」は政治的プロパガンダに利用され、自発的にグラウンドゼロに集った人々は使い捨てられた。
ムーアはこの捨てられた人々*1への「友愛」が必要なのではないか、と問いかけているように思えた。
ムーアの問題意識は医療制度からさらに大きな枠組みとしてのアメリカの思想的根源へと斬り込み、おおむねその試みは成功している。
「ボウリングフォーコロンバイン」もそうだが、ムーアの視点はアメリカ政治に対する優れた政治学的分析になっている。
私にはこの映画がムーアによる愛国的映画としてしか見られなかった。*2アメリカには、カメラの前で涙を流す良心を持つ人々が存在する。
ムーアはそれを綿密な取材でたくさん見たはずだ。
翻って日本はどうなのだろうか。それを考えると暗澹たる気持ちになった。身捨つるほどの祖国はありや―――

一方、この映画に対する主な反論、批判として、フランスやイギリス、カナダの医療制度の良い面ばかりを強調している、というのがある。
それは批判としてはありえるし、国家による医療制度の管理が永続的に可能なのかという問題は残る。
しかしカナダが可能で、それよりももっと金持ち国のアメリカで出来ない理由もないし、一応各国ともに破綻なく皆保険制度が機能している現状ではアメリカがやれるのにやらないというのが真実だろうと思う。
パンフレットのデーブ•スペクターのムーア批判は冗談としか思えなかった。
アメリカの医療技術や製薬技術は世界ナンバーワン(略)、ヨーロッパでも中東でも世界中のお金持ちはみんなアメリカで手術を受けたがるんです。』とな。
それは弱者を見捨てることでしか成立し得ないものじゃないでしょ。金がある人はどんな治療を受けたっていいと思うけど、金がないからと言ってcapabilityを狭めることになることが許される訳ではない。

*1:実際に映画の後半には、医療費が払えず病院からタクシーで捨てられる老人のエピソードが紹介される

*2:その傍証としてムーアは、妻の医療費が払えず閉鎖を検討していた反ムーアサイトの管理人に匿名で寄付を送る。アメリカの言論よ自由であれと!

我々は戦場を欲している。それは間違いないこと。

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)
この本を読み終わって、「あ。これは戦場の話なんだ」と思ったわけですよ。
戦場の美意識、その倒錯ぶりと、ここでいう歩合ライダーの美意識がすごく調和してる。
例を引くのはちょっと手元に本がないんで出来ないんだけど、引退した歩合ライダーがそのまま発送の割り振りを決める、とかね。
どんどんバイクから余計な物をそぎ落としていくことがかっこよさに繋がるとかね。
すごく軍隊、しかも傭兵団に似ている。
バイク便ライダーの世界は、傭兵のやる白兵戦だ。
で、この本と更に、ほぼ同時期に読んだ論座赤木智弘氏の
「『丸山眞男』をひっぱたきたい」、続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」とが自分の中ですごく繋がっている。
バイク便ライダーの仮想敵って。オフィスでぬくぬくしている正社員だったり、タクシー乗ってる人だったりするわけです。身近なの。
それと赤木氏の言う(これも手元に現物がないのでニュアンスだが)「革命ではなく、戦争」「打倒したいのは強大な権力ではなくちょっと上にいる人」
というちょっと上のものへの敵意、ってこれらは実際どこから出てくるのか分からないんだけど、これが近しいものがある。
そりゃそうだ。戦場をイメージしたものと、「戦争」だもの。
ただ、戦場を欲することと、戦争を欲することは違う。
ここで思うのは、赤木氏の考えていることは「戦争」よりも「戦場」のイメージじゃないかってことだ。
論座に掲載された多くの赤木氏への反論が的を外しまくっていることは、この差に由来するのかな、とも思う。
戦争は悲惨だ。間違いない。ただ、戦場は?
全く私的イメージだけで言うけれども、戦場には、戦争にはない、どこか爽快感のようなものがある。
爽快感とは、あまりだらだら説明したくないが、確率への還元だといって差し支えないと思う。
戦場の倒錯した美意識も確率への還元。「何故あの弾は隣の兵士に当たって私には当たらなかったのか」その逆もしかり。
金を持っているからとりあえず食う物は大丈夫みたいな前提条件が消え去って行って、
研ぎ澄まされたサバイバルな意識だけが、戦場で人を自由にする。自由は死ぬ自由も含む。(つまり、freedom from ではなくfreedom to)
少なくともその自由は、今の「日本社会」には絶対にない爽快感。
だからこそ、いま戦場が求められている。私はそんな風に考える。

最近の関心事

2010年の企業通貨―グーグルゾン時代のポイントエコノミー (未来創発2010)じゃないけども、やれJALが経営再建だの社債の償還がやばいだのいってるのに、マイレージへの信用はいささかも揺らいでないんだよね。
クレジット(信用)のない通貨の暴走?マイル取り付け騒ぎとか楽しいじゃありませんか。