マイケル•ムーアの「SiCKO」を観た。ややネタばれ注意

SiCKO

国民皆保険のないアメリカでは民間保険会社が跋扈するが、
当然営利企業である以上利益のために保険の適用否認がインセンティブとしてビルトインされ、
その結果充分な医療を受けられないで死亡する人が年間18000人も出てくるというアメリカの現状のお話。
ロビイストの鼻薬をかがされた議員どもは、皆保険制度を社会主義医療と煽り認めさせない。
かつて皆保険制度導入をぶち上げていたヒラリー•クリントンも映画作成時点には「転んで」いたようだ。(今どうなっているかは知らない)
まあここまではいつものムーア節なのだが、
こっからの展開がすばらしく、見終わった時にはなんとなく今までのムーア映画になかったすっきり感がある。
そのすっきり感は「友愛」によるものだろうと思われる。
ネタばれは控えるが、終盤我々はアメリカ撮影ではお目にかかれなかった「友愛」をアメリカ以外の国で見ることになる。
ムーアが示唆するのは、アメリカ政治における「友愛」の不在だ。
序盤、医療費が払えず家を追われた老夫婦が子供を頼ってくる。まだ二十代の子供はいい顔をしない。ここからすでにアメリカを覆う「友愛」の不在が顔を出している。
政治学的には初期のロールズが著した正義の概念は、アメリカ的思想の産物とみなされている。
「自由」と「機会の平等」こそが「正義」であり、家族や共同体が提供する「ケア」「友愛」の論理は弱められている。
フランス革命にあった「自由」「平等」「友愛」の理念のうち、競争原理による経済成長を志向したアメリカでは「友愛」が徐々に失われて行った。
ムーアはそれを問題にする。9.11で表明された人々の残り少ない「友愛」は政治的プロパガンダに利用され、自発的にグラウンドゼロに集った人々は使い捨てられた。
ムーアはこの捨てられた人々*1への「友愛」が必要なのではないか、と問いかけているように思えた。
ムーアの問題意識は医療制度からさらに大きな枠組みとしてのアメリカの思想的根源へと斬り込み、おおむねその試みは成功している。
「ボウリングフォーコロンバイン」もそうだが、ムーアの視点はアメリカ政治に対する優れた政治学的分析になっている。
私にはこの映画がムーアによる愛国的映画としてしか見られなかった。*2アメリカには、カメラの前で涙を流す良心を持つ人々が存在する。
ムーアはそれを綿密な取材でたくさん見たはずだ。
翻って日本はどうなのだろうか。それを考えると暗澹たる気持ちになった。身捨つるほどの祖国はありや―――

一方、この映画に対する主な反論、批判として、フランスやイギリス、カナダの医療制度の良い面ばかりを強調している、というのがある。
それは批判としてはありえるし、国家による医療制度の管理が永続的に可能なのかという問題は残る。
しかしカナダが可能で、それよりももっと金持ち国のアメリカで出来ない理由もないし、一応各国ともに破綻なく皆保険制度が機能している現状ではアメリカがやれるのにやらないというのが真実だろうと思う。
パンフレットのデーブ•スペクターのムーア批判は冗談としか思えなかった。
アメリカの医療技術や製薬技術は世界ナンバーワン(略)、ヨーロッパでも中東でも世界中のお金持ちはみんなアメリカで手術を受けたがるんです。』とな。
それは弱者を見捨てることでしか成立し得ないものじゃないでしょ。金がある人はどんな治療を受けたっていいと思うけど、金がないからと言ってcapabilityを狭めることになることが許される訳ではない。

*1:実際に映画の後半には、医療費が払えず病院からタクシーで捨てられる老人のエピソードが紹介される

*2:その傍証としてムーアは、妻の医療費が払えず閉鎖を検討していた反ムーアサイトの管理人に匿名で寄付を送る。アメリカの言論よ自由であれと!