『となり町戦争』をめぐる苛立ち

となり町戦争
私自身は結構楽しく読んだのだが、私がアンテナに入れている敬うべきblogの中には否定的な意見もあり、やや強引に要約するとそれは「戦争観」みたいなものの相違に起因するのかなと思った。しかし「戦争観」と一言にいっても、それは「戦争」という非常に困難なものを孕んだ事象に対する見方が相互に対立しうるゆえに、「戦争観」自体についても深く考えなければならないという困難がつきまとう。
「戦争観」とはぶっちゃけて言うと「戦争」をどうとらえるかということでしかないが、それは「人生観」というようなものとはちょっと違い、体験の有無から生じるグラデーションについても考える必要がある。まず、昔の「戦争観」、戦後20年とか30年とかの時代は、日本における戦争の体験者と非体験者の格差において論争が可能であったように思う。これはこれで有意義なものであったし、野田秀樹鴻上尚史か忘れたが、「『戦争を知らない子供たち』が三番まで歌える」ことがギャグとして成立する時代ではあった。
だが現代は、体験者不在(と言い切ってもいいような気がする)の「戦争観」が相争う時代になった。ともすれば「湾岸戦争はなかった」し、「ベトナム戦争もなかった」という連中が「戦争」をめぐって意見を戦わせる。では、そこで問われる「戦争観」の相違を判定する基準とは何なのだろうか。イラクに行ったり、靖国神社に行ったりすることで生じる違いなのだろうか。あるいは「証言」を聞くことで何か戦争についてわかったような気持ちになることが、「戦争観」においては重要なのだろうか。
『となり町戦争』における「戦争」は可視化されず、ただ犠牲者が数字の形で表現されるような世界の話だ。主人公は感触として「戦死者」を感じるところまで「戦争」に接近するが、つまりそこまでしか「戦争」について知り得ない。これを指して我々が依って立つところの「戦争観」による批判は成り立ち得るのか。実際は成り立たないはずだし、前半はいい具合にいっていたのだが、後半から「戦争」にコミットするあたりで調子が狂ってくる。ラブロマンスや「闘争心育成樹」のポップさ、官僚的、もっと陳腐なお役所的「戦争」という設定から、作者のスタンスは「戦争なんて知りません」という明快な立場表明をしているように思える。
だが、それは違う。作者は「戦争」という題材を選んだときにあるジレンマに陥らなければならない。それは、「戦争」なんて知らないよと言いながら「戦争」の悲劇について語らねばならないというジレンマだ。見えない「戦争」をなんとか知覚させることは非常に難しく、その点で作者は見事に失敗している。見えない「戦争」は見えないままであったほうが作品としては完成度が高かっただろう。知らないものたちが語る「戦争観」という愚かしい渦になぜ作者は進んで飛び込んでいくのか。
私が楽しく読めたというのは、意地悪な言い方だが、これも一つの「良識的戦争観」に裏打ちされた作品という評価においてだ。しかしそれはそれでいいのだと私は思った。なんとなく戦争の悲劇を叫びながら、それは結局ラブロマンスの刺身のツマでしかないというその無責任感が、現代の多数の人間の何とはなしに思う「戦争っていけないよね」という価値観に合致しているのだ。そのことは一つの文学的価値であろうし、その中途半端さが評価されたのだと思いたい。