しかし、特に一節を割いて語りうるべき書物について

ドキュメンタリーは嘘をつく
「不偏不党」と聞いていつも思い出すのは、町山氏のブログだったかで読んだある言葉のことだ。それは映画についてだが、要約すると「アメリカでは映画の評価で星が1から5まであったら、1か5につけることで総体ではバランスがとれるが、日本では観客一人一人が3につけてバランスをとろうとする」。
これは日本の報道姿勢にもよく現れている気がしていて、報道機関それぞれが自分なりのバランスをとろうとしているのである。時に政府に厳しく、同じような専門家を使い回し、お涙頂戴が社会面を支配する構図。その構図の中では、各新聞社の差なんて誤差の範囲内だ。そんなに強烈なカラーは見いだせない。だってそもそも200万ー800万読者のコンセンサスを得ようとすることは、確実に独自の意見と矛盾するはずであって、更に言えば、ある事件や状況に対して何らかの独自の知見を打ち出すのに、それを可能にするファクトが各社には圧倒的に不足している。
LDとCX問題のときの産経のファビョリ方は好きだった。あれは身内に降り掛かった火の粉がそうさせた訳だが、いい感じに独自性が出ていた。ああいう危機感や必要性をもっと一般的なものにできれば、新聞はもっと面白いものになるだろうと思う。しかしCXは、そこで退いてしまったのがよくない。あれはなんでだったのだろうか。
で、そもそも森達也のような面白い人が結果的に重用されないというのは、「森達也にとって面白いこと」をごく単純に「みんなにとって面白いとは限らない」と結びつけてしまうからだと思う。タブー云々は方便でしかなくて、結局それを見て不愉快に思う人がいるから、もしそうだとすればそれは「不偏不党」じゃない、ということになってしまう。経済学じゃないんだから、最大多数の最大幸福なんてメディアは考える必要はない。だってどんなに頑張ったって視聴率100%はありえないのだもの。でも、視聴率100%を実は心の底で目指そうとしているから、ある瞬間にこの国のメディアはファシズム的にある方向にドーッと流れていってしまうのである。