おもむろに今年の十冊を書く

自分的には今年の仕事は納め時。さようなら今年、こんにちは来年てなもんだが、
資本市場の端の端にいるものとして今年はやっぱりすごい一年だったと思わざるを得ない。
ナベツネやコクドの堤が転んだ2004年。
ヒルズ族ジェイコム長者が暴れ回った2005年。
日本の資本市場が音を立てて、まさに成長期の中学生の骨のように、進化しておりました。

さて、どうでもいい前書きはこのくらいにして。今年の十冊。今年で三回目。
「朝日」ともあろうものが。日経新聞の黒い霧
テレビ局の買収問題しかり、マスコミ(という言葉もそろそろ実態にそぐわなくなってきたような気もするが)の自壊しかり、2005年は「第四の権力」が激しい自己批判を迫られた年であっただろう。ブログの進展とかもまあそういう要因としてあると思うが、それよりも、大手メディアの企業としての能力があらゆる意味で問われ、結果としてたいしたことないよねと判定されたことが大きかった。規制産業に対する「自由化」という視線がそうさせたわけだが、電波や再販制度という規制の安楽が大手メディアを内部から腐らせていたことがようやく(実際には昭和天皇崩御前後からすでに兆候は現れていた)明らかになった。頑張れと言いたい。

バスジャック極西文学論―West way to the world
三崎亜記仲俣暁生の出現は事件だった。文学というものがここまで汚され、小馬鹿にされているか。
『バスジャック』と『極西文学論』を読んだときに共通したものがあった。呆れというかそんなものを感じ、にやりとしてしまった。この二人は今すぐ筆を置いた方がいい。

移民たち (ゼーバルト・コレクション)ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ
しかし日本の中には賢明な文学人がまだたくさんいることも事実だ。

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて国家の自縛
2005年の言論界にとって、佐藤優の出現が最大の「事件」であっただろう。彼の文章にはいつも背筋が寒くなる思いがする。

パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない
「モーニング」を求めて開店前のパチンコ屋の前に並ぶ人々を見て、日本人はなんと勤勉な民族だろうと思うことがよくある。そして同時に、なんて愚かな民族だろうとも。

厄介なる主体1―政治的存在論の空虚な中心
ゆえに日本人はこの主体のアポリアにすら到達していない。