小島信夫の章

今一番小島信夫の本を見つけやすい本屋は実はヴィレッジバンガードなのかもしれないなあと。保坂つながりで置いてあるのかもしれないけど、なんかちゃんと置いてあるね。水声通信もあったし。
保坂のプッシュで知ったミーハーに属する私がいうのもなんだが、今、それとは独立したひそやかなブームにあるんでしょうか。死ぬ前に出しとこうとか言う不埒な編集者根性でもあるまい。時代の要請?ようわからんな。

対談・文学と人生 (講談社文芸文庫)
キター!!!森敦との対談集ですよ。

しかし、水声通信 No.2 (2005年12月号) 特集 小島信夫を再読するはよかった。大庭みな子の文章が秀逸で、何度も読み返した。
企まない巧み」という表現は小島信夫の文章をきわめて的確に表しているように感じた。
もうひとつ大庭の文章を読んで感じたことだが、一見とりとめのない話の連続であっても実際は彼の中では思考の深いところで繋がっている、という表現は自分にも当てはまるところがある。
それは論理的ではないが、内的論理に属するものだろう。私が小島信夫にシンパシーを感じるのはそんなところがよく似ているからなんだろうな。
小島信夫の語り下ろしも、非常に刺激的だった。小島はチェーホフについて語る。そしてピータブルックを引きながら、彼の演劇論に小説論を見いだす。ここは我が意を得たりというところだった。
私はよく小説に演劇を見る。元々、芝居の人間であったということもあるけれども、基本的には小説も群像的である方が自分にとって面白いし、つまりそれは関係というエンジンでもってどこへ転がって行くかわからない面白さということだ。
だから小説は演劇のようであって全然構わないし、初期保坂や吉田修一吉田修一についてはあとでもう少し書く)が面白いと思うのもむしろ関係とか場の論理が誰にとってもどうしようもない物として独立してあり得ているが故に楽しいということなのだろう。
小島信夫は流転する。息子や妻の不幸に翻弄され、自分と自分がずれていく。その様が喜劇でもあって悲劇でもあって、どこに流れ着くかわからない、それを小島信夫はできるだけ忠実に書く。
自分は確かにあるが、しかしその記述はたいてい自分から大きくはみ出している。そこがおもしろい。
だから、堀江敏幸は、ことここに書かれている文章に関して言えば、あまりにひどい。「虫歯をかむような」でうまくまとめてみたりなんかして。
なんかちょっと、作られた文章過ぎて、それはそれで需要があるんだろうが「想い」からはずいぶん遠くにあって、それまではいい感じに読んでたのに、場違いでちょっと鼻白みました。

もうひとつ、「残光」の話。実際読んでるとひどく疲れてまだ全部読み切っていないので内容に踏み込めないが、やはり彼に「私小説」という分類は適当でないと感じるのです。
その「私」とはいったいなんなのか。