森敦雑感

森敦―月に還った人』なる本を下北沢の店主やる気ない本屋でゲットそして先般読了。
組曲 月山」という成り行きこそ正義みたいなレコードを出し自分も芥川賞とっちゃうなど多芸な電通マン作家が森敦との交流を描いている。以前、
森敦との対話を読んだが、もう一面から見た森敦論ということでそれなりに貴重。かつ面白かった。小島ー森対談集に入る前の準備運動だ。

森敦の作品は構造的であると、著者の新井氏は繰り返し主張する。ズームとパンという映像的構成と仏教的世界構造、簡単にまとめてしまうにはやや躊躇があるが、森氏の作品にはそのような要素を融合させた構造があるという。生死を司る月山と鳥海山の対比、会社勤めと放浪の日々。森敦の生涯のそこかしこに、彼なりの美学と見識に基づいた構造があるとも。

ニュースの章「ホームレスに住所認める、大阪地裁」

http://www.sankei.co.jp/news/060127/sha081.htm
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060127AT5C2701Q27012006.html
http://www.asahi.com/national/update/0127/OSK200601270037.html
これは賛否両論あろうねえ。こんな判決出る前に対応の仕方があったろうに。ここまで裁判所が先鋭化する気持ちもわからんでもないというか、行政の無策が根本にあるので裁判所に云々言うのは筋違い。







屋根からお魚生えてる。

鈴木宗男、堀江の章

闇権力の執行人をかなり前に読み終わっていたが、堀江逮捕に触れて、闇権力必死だなwwwという気分だ。
まあそれは冗談として、検察が猿回し、マスコミ各社が猿回しの猿を演じる構図は驚く程よく似ている。生きる扉グループの時価総額ベースで800000000000円くらいがどこぞへ溶けていったが、まあこれも変革のコスト、と考える人々には脱帽だ。語られるべきニュースが語られなかったという機会損失も含めれば一兆円ぐらいにはなろう。
謎がたくさんある。出所は小泉揺さぶりをはかってキングメーカとしての影響力を排除したい人周辺かと妄想してみるが、やはりその人の疑惑の本命は「より大きい」よりも「ダイナ」なんだろうなあ。いや、私は何も知りませうわ何をする貴様らいhgっhごいsらbv

これ一回やってみたかったんだよね。頑張れ宗男。

吉田修一の章

ひなた丸善丸の内で買って、隣の丸の内ホテルの喫茶店で読む。静かで広くてオヌヌメ。コーヒー一杯千円くらいするけど、ご愛嬌。
この「ひなた」、そもそも何でひなたなのかさっぱりわからんけど、連載時も読んでないけど、これはたぶん『JJ』の連載とは全く違う作品になってるのだろう。
やっぱり、上手い。円熟している。東京に来て約三年やっとわかったことがある。吉田修一ほど東京を掴んでいる作家は他にいないんではないだろうか。その孤独、幻想について。

小島信夫の章

今一番小島信夫の本を見つけやすい本屋は実はヴィレッジバンガードなのかもしれないなあと。保坂つながりで置いてあるのかもしれないけど、なんかちゃんと置いてあるね。水声通信もあったし。
保坂のプッシュで知ったミーハーに属する私がいうのもなんだが、今、それとは独立したひそやかなブームにあるんでしょうか。死ぬ前に出しとこうとか言う不埒な編集者根性でもあるまい。時代の要請?ようわからんな。

対談・文学と人生 (講談社文芸文庫)
キター!!!森敦との対談集ですよ。

しかし、水声通信 No.2 (2005年12月号) 特集 小島信夫を再読するはよかった。大庭みな子の文章が秀逸で、何度も読み返した。
企まない巧み」という表現は小島信夫の文章をきわめて的確に表しているように感じた。
もうひとつ大庭の文章を読んで感じたことだが、一見とりとめのない話の連続であっても実際は彼の中では思考の深いところで繋がっている、という表現は自分にも当てはまるところがある。
それは論理的ではないが、内的論理に属するものだろう。私が小島信夫にシンパシーを感じるのはそんなところがよく似ているからなんだろうな。
小島信夫の語り下ろしも、非常に刺激的だった。小島はチェーホフについて語る。そしてピータブルックを引きながら、彼の演劇論に小説論を見いだす。ここは我が意を得たりというところだった。
私はよく小説に演劇を見る。元々、芝居の人間であったということもあるけれども、基本的には小説も群像的である方が自分にとって面白いし、つまりそれは関係というエンジンでもってどこへ転がって行くかわからない面白さということだ。
だから小説は演劇のようであって全然構わないし、初期保坂や吉田修一吉田修一についてはあとでもう少し書く)が面白いと思うのもむしろ関係とか場の論理が誰にとってもどうしようもない物として独立してあり得ているが故に楽しいということなのだろう。
小島信夫は流転する。息子や妻の不幸に翻弄され、自分と自分がずれていく。その様が喜劇でもあって悲劇でもあって、どこに流れ着くかわからない、それを小島信夫はできるだけ忠実に書く。
自分は確かにあるが、しかしその記述はたいてい自分から大きくはみ出している。そこがおもしろい。
だから、堀江敏幸は、ことここに書かれている文章に関して言えば、あまりにひどい。「虫歯をかむような」でうまくまとめてみたりなんかして。
なんかちょっと、作られた文章過ぎて、それはそれで需要があるんだろうが「想い」からはずいぶん遠くにあって、それまではいい感じに読んでたのに、場違いでちょっと鼻白みました。

もうひとつ、「残光」の話。実際読んでるとひどく疲れてまだ全部読み切っていないので内容に踏み込めないが、やはり彼に「私小説」という分類は適当でないと感じるのです。
その「私」とはいったいなんなのか。